自作することの罪



あまり語られることがないかもしれませんが、自作に関して感じていることをつらつらと書いてみたいと思います。
私も「自作病患者」の類だと自負しているのですが、このことは、自己満足以外のなにものでもないと考えています。なぜなら、自作とは「自分が欲しいモノ(時として妥協の産物ではあるが・・)を自らの手で作り上げるプロセスを楽しむもの」だというのが持論でして、経済活動とはまったく違う世界にあると思っております。ある意味、当然のことなのですが、工場では、ネジを一本作るだけでも治具を組んで、品質管理の名のもとに何万本と作るのですから、コストや、品質については、同じ土俵の上で語ることなどとてもできませんよね。小数しか作成しない自作した作品のコストはべらぼうに高く、さらに技術は幼稚で不安定ときています。技術や品質は個人差によるところが大きく、名のあるメーカー製の品物に決してひけをとらない仕上がりを見せるモノもあるでしょうが、コスト面ではどんなにあがいてもビジネスとして量産品(仮にこう読んでおきます)にはかなわないのです。そんなことから、自作とはマスターベーションと言えると思います。言い換えれば、自分さえ満足できているならば目的を達したと言えるでしょうし、それがすなわち存在価値なのではないでしょうか。

自作することの意味は、いったいどこにあるのでしょうか?自作という言葉の意味を言うつもりはないので、好きなことを書いてみたいと思います。
その存在は、往々にして、作者やそれを見る人の価値観によって変わってくるということが、言えるのではないかと思います。表現するのが難しいのですが、同じ木を使った作品の場合、木彫のような工芸品と、ログハウスのキットのような工業製品に近いモノとがあります。前者は、表現のための加工技術に多くの時間を費やし、後者は技術より組み立てる楽しみや、その後の実用性に重きが置かれています。比べることは愚かだと思いますが、この2つがどちらもプロが作ったような仕上がりだった場合、どう評価されるのでしょう。非常に興味のあるところですが、多くの人がログハウスを評価するのではないのでしょうか?なぜなら、家という非常に身近な作品であるため、それを建てたことの苦労した様子が想像しやすいことが大きな理由になるでしょう。その点で、木彫は小さくて、芸術的な要素が大きく、さらにあまり身近ではない素材であるということもあります。しかし、長時間にわたり、手を使い、汗をかいて作ったという事実は、どちらともあるわけでして、その価値を軽々に論ずべきではないことは、いうまでもありません。
前記した通り、自作した作品の意味を問う場合、木彫りような工芸品の類はやっかいです。こいつには、アマチュアが作った場合、手作りと言う名がいつでもつきまといます。この類の自作した品物「The name of 手作り」は、得てして工芸品的な視点で評価されるべくして生まれてきたと言えるでしょう。そして、世の中のしくみが、自作とか手作りなどと呼ばれることで、価値が上がるようになっていて、その過程が評価の対象ともなりやすい傾向がありましょうから、それはいたしかたないと言えるかもしれませんね。
さて、この「手作り」といった冠詞が呪文のようにつきまとう品々は、正当に評価できなくする、まさに「呪い」のように思えてしかたありません。 この「呪い」のおかげで、手作りの品物は、「素人が作ったことを念頭に置いて評価すべき」と密かなるうちに決められているように思えます。言い換えれば、素人が一生懸命作ったのだという精神的な部分が強調されているということです。とりあえず作品の完成度が高い、つまり職人のようなプロフェッショナルライクな仕上がりは求められることはなく、むしろそのような完成度の高さは、手作りであることを疑われることさえありそうですね。うまく説明できないのですが、呪いをかけるためには、手作りらしいと容易に判断できる「へたうま」な部分が求められるのではないでしょうか?
極端な例ですが、おねいちゃんが彼氏のために必死に編んだセーターで、惜しくもちょっと袖の長さが違うような品物と、編み物が趣味のおねいちゃんがチャッチャと編んだ完成度の高いセーター、どちらのどこを評価するのが適正なのでしょうか?かたや非常に苦労した形跡が見え、もう片方はすばらしい仕上げなわけです。しかし、よくよく考えて見ると、素晴らしい仕上げにするためには、日頃の切磋琢磨があってこそ実現することであるとも言えます。ですから、その作品にかけた時間を単純に比較してしまうのはフェアーでないことでしょう。さらに、その愛情の量を推し量るのはさらに難しいことは、言うまでもありません。ここでは、その品物はプレゼントであって、その「気持をくむ」ことが、評価する最大のファクターとなってくるような気がいたします。
一方、お値段を付けられて販売されているモノとなると、多少その基準が違ってくることでしょう。同じ種類の品物で、へたうまでいかにもな工芸品と、無機質な工業製品が目の前にあったとしたらどちらを選ぶでしょうか?おおかたの場合は、その両方を手に取り、良く吟味した上で選ぶことになるように思えます。手作りの品か工業製品かと言うことはその時には必要のないファクターなのです。つまり、ユーザーが品物を選ぶということだけで、生まれてきた過程とか作者の存在は特別な場合をのぞいて、そこにはありません。このことは重要な意味を持っていると思うのです。工業製品については、多くを説明する必要はありませんが、工芸品の類には、作成者のこだわりや思いこみなどが渦巻いていることは少なくありません。もちろん、それは悪いことではありません。しかし、残念ながら、そのこだわりは、本人の口からそのうんちくを聞かない限り、作品からそれがにじみ出ることは極めて希のように思えます。そして「一生懸命」といった精神的な部分はあくまでも作者にしかわからないので、作品に反映されていない以上、極めてわかりにくいと言えるのではないでしょうか。

この精神論は実にやっかいでして、そのレベルが高い場合は作者がなにも語らなくても作品からにじみ出てくるものでして、第三者が見てもそれがわかります。おそらく、これが工芸品のプロの世界なのでしょう。しかし、その技量に関係なく、この精神論は作者が簡単に付加価値として着けることができてしまいます。その方法は実に簡単で、ただ「雄弁に語る」だけで良いのです。仕上がりが良かろうと悪かろうと、同じ「こだわり」を持つことは可能なのです。

 通常、自作という行為は、かなりたいへんな思いをして作品を生み出すことになるは事実だと思います。それゆえ、作品に対する思いこみは強くなる。気持ちは解るような気がします。
しかし、それを第三者に押しつけるのはいかがなものでしょうか。落ち着いて考えてみると、そのこだわりの作品は狭量な知識と、未熟な技術から生まれてきたものなのです。


とはいえ、呪いはともかく、私個人としては「未熟で狭量、結構じゃあないか」と開き直るところがあります。そういったことはプロになりたい人が向かい合うべき問題で、私のようなアマチュアには関係ないことだからです。例えるなら名のある陸上選手と私がかけっこをしたら、かたや流して、かたや死にものぐるいで走ったとしても、結果は明々白々です。しかし、ここで敗者の私を非難する人はおそらくいないでしょう。なぜなら、これは競技ではないからです。つまり、同じ土俵に上がるべきではないレースなのです。プロとアマチュアは、まったく目指すところが違うのですから。ところが、アマチュアにとってみれば、「プロと同じコースを走った」と勘違いしてしまうこともありえるでしょうねえ。悲しいことですが、自分が未熟で狭量であるが故にそのことを知り得ないのがアマチュアなのです。こういったことはものつくりの現場でも同じことが言えるのではないでしょうか?少しかじるとアマチュアは解ったような錯覚に陥り、プロと肩を並べて話ができてしまうように思えてくることがあります。しかし、それは所詮マラソンのレース中に、ランナーとその横を数メートル併走するギャラリーとの関係なのですから、それをわきまえて「偉大なる勘違い」さえしなければ良いのです。逆にアマチュアなのですから、なんでも有りです。高コスト、非効率が許されますし、形式や固定観念にとらわれずに自分の「未熟で狭量」な技術をフルに活用して「自己満足の世界」を極めて行けば良いのです。その道も経験を積めば、きっと「プロ並み」と呼ばれるようになるのですから。もちろん「仕上がり」がですよ。そして、それを評価する人が増えて、世間様がその価値を認めてくると、本物のプロになるような気がしております。


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